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承天寺
福岡県福岡市博多区博多駅前1-29-9
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承天寺は聖一国師 円爾弁円によって仁治3年(1242年)に開山された寺院です。山号は萬松山。5才から修行を始めた弁円は嘉禎元年(1235年)に34才で宋に渡ります。宋での6年の間に天竺僧柏庭月光から経を授かり、径山の万寿寺無準禅師から印可証明を授かります。そののち帰日して博多に立ち寄った際に承天寺を開山しました。源頼朝によって鎮西奉行に任じられた大宰少弐武藤資頼が大檀越となり、博多綱首(船主の貿易商)であった帰化宋人 謝国明(謝太郎国明)が援助しました。 勅許により官寺とされた承天寺は西海の巨利として栄え、盛時には四十三寺を有していたと伝えられていますが、現在では乳峰寺・天與庵・宝聚庵・祥勝院の四寺のみとなっており、駅の開設や都市整備などにより境内も狭まり、今では境内を二分するように道路が通っています。
境内には木造釈迦三尊像、絹本著色の禅家六祖像、高麗の銅鐘といった国指定重要文化財や、謝国明図像、県指定考古資料である完形の蒙古碇石(長さ209センチ、推定重量230キロ、凝灰岩製)を有しています。このうち蒙古碇石は覚皇殿の前にあるので見ることができますが、その他の寺宝の多くは一般公開されていません。
承天寺にはオッペケペー節で名を馳せた新派劇創始者の川上音次郎の墓所や、聖一国師とともに宋へ渡って織物などの技術を学び帰国して後に仏具の華皿と独鈷を意匠化して博多織の基礎を築いた満田弥三右衛門の墓所があります。また聖一国師によって中国より日本に伝えられたといわれることから「饂飩蕎麦発祥之地」の碑が立てられています。 その他に、福岡藩勤王党の流れをくむ下級武士で組織され、のちに西南戦争で薩軍に呼応して決起した就義隊を偲ぶ「旧就義隊之碑」(黒田長成侯の筆)、お百度参りの石仏と将軍地蔵、鐘楼などが敷地内にあります。
承天寺から東へ100メートルほどの堅粕橋のそばには謝国明の墓所があります。謝国明は南宋臨安府に生まれ、船主の貿易商である博多綱首として日宋貿易で富を得、承天寺に十八堂伽藍を寄進した人物です。のち日本に帰化し謝太郎国明〔くにあき〕と名乗りました。日本に針治療を伝えたとされ、また飢饉のときには博多の人々に蕎麦を振る舞いこれが年越し蕎麦の起源とも言われています。
没したのは弘安3年(1280年)10月7日と伝えられていますが、文永の役より以前に亡くなったという説もあります。彼の墓所に植えられた楠の木は墓塔を包み、以来700年成長して「大楠さん」の名で親しまれるようになりました。終戦前後の失火ないし落雷により大楠は枯れ、今では横に植えられた若い楠の木が立派に葉を繁らせています。8月21日には謝国明の遺徳を偲んで大楠様夏祭が催されます。 ![]() 蒙古碇石 ![]() 将軍地蔵 ![]() 饂飩蕎麦発祥之地の碑 ![]() 大楠さん ![]() 謝国明の供養塔
承天寺を開いた弁円は博多祇園山笠とも深い繋がりがあるとされています。弁円が帰国した仁治2年(1241年)、博多の町中で流行していた疫病を調伏するため、町人に担がせた施餓鬼棚に弁円が乗り、そこから甘露水を振り撒いて町中を清め回ったのが山笠の起源だという説です。そのことを示すため勅使門の横には「山笠發祥之地」の石碑が置かれています。またその繋がりからか、毎年の追山では承天寺の前に清道旗が設けられ、承天寺の住職が見守る前で清道を回ります。
![]() 「山笠發祥之地」の石碑
承天寺にはもともと山門がなかった。そのことから博多では「承天寺の入口」という言葉があった。その意味は「山門(三文)もない」ということで、スッカラカン・文無し、という意味の掛詞であった。
おもな祭礼
交通アクセス 西鉄バス 「祇園町」「緑橋」から5分 福岡市地下鉄 「祇園駅」から5分 |
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