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西公園
福岡県福岡市中央区西公園 ![]()
福岡城址の北側に位置し、かつて荒津山とよばれていた面積約17万平方メートルの丘陵地は現在、西公園として整備されています。 古代、現在の大濠公園一帯を占めていた草香江という入り江を挟んで鴻臚館の外海側に位置していた岬部分の突端に荒津山がありました。その様子は住吉神社所蔵の鎌倉時代に作られた博多古図にも描かれています。 江戸時代になり黒田長政が福岡藩主として入封されて荒津山の南側の福崎の地に城を構えてからは、荒津山近辺の海岸は藩の港としての意味合いが生じました。三代藩主黒田光之によって防波堤が築かれ、正徳年間(18世紀初頭)までは藩船を引き揚げる「御船引上所」があり、そののち港として整備されて享和2年(1802年)には福岡藩の船溜りとして完成、幕末には異国船を退けるため台場が築かれ大砲が据えられもしました。荒津山から福岡城にかけての一帯は船や海に関わる町人とともに福岡藩士の居住地ともなっていました。 二代藩主黒田忠之は慶安元年(1648年)、荒津山山腹にあった金龍寺を福岡西町に移し、三年がかりで徳川家康を祀る東照宮を建立しました。この事業には寛永年間に起こった黒田騒動によって失した幕府の信用を取り戻すという意味合いもあったと考えられます。東照宮の祭祀を執り行う天台宗の宮司坊松源院も山麓に創建されました。そののち東照宮の南西に三代将軍徳川家光の位牌を祀る安穏寺源光院が薬院から移されもします。
明治維新の廃藩後に東照宮や松源院などの社寺が撤去されたため山中は荒廃したものの、明治14年(1881年)に太政官布告に基づいて官に上申して「荒津山公園」として再整備されることとなります。明治18年(1885年)には園地を開拓して桜や椛を植樹。明治21年(1888年)に荒津山の官地すべてを公園化し、翌年には桜425本・桃100本・海棠50本を植樹しました。明治33年(1900年)に「西公園」と名称を改め県の管理となりました。ただし東照宮などは復元されることなく、代わりに同地には明治40年(1907年)に光雲神社の社殿が移されました。その際に東照宮の石鳥居がそのまま光雲神社でも用いられました。ソメイヨシノやシダレザクラなど数種類の桜が満開になる春には多くの花見客が西公園に訪れます。西公園の桜は「さくら名所100選」に選ばれています。園は松・椎・樫といった自生樹木や明治以降植栽された桜・躑躅などが混ざり合った風致公園として春といわず市民県民に憩いを与えており、高台からは木々の合間に博多湾や福岡市内が一望、福岡漁港や荒津大橋などを近くに感じることができます。
荒津山「西公園」の山腹には黒田長政とその父孝高(如水)を祀る光雲〔てるも〕神社があります。明和5年(1768年)、六代藩主黒田継高が福岡城内天守台東側に社殿を建立して黒田長政を聖照権現と崇め、また安永2年(1773年)には黒田孝高を水鏡権現として併祀することとなりました。 明治4年(1871年)の廃藩置県によって福岡藩がなくなり黒田家が東京へ移転したのちになり、歴代藩主の恩恵を慕う旧藩士藩民らが十一代藩主長溥に藩祖を祀ることを願い出、同年に警固神社の宮司坊であった小烏吉祥院の廃寺跡に社殿を改め、孝高と長政の法名の一字をもって光雲神社として崇拝されることとなります。その4年後の明治8年(1875年)には社格が県社に昇格します。明治40年(1907年)に光雲神社の社殿が西公園に移されました。 昭和20年(1945年)の福岡空襲で西公園一帯も被災するも、昭和41年(1965年)に多くの人の寄付によって社殿が再建され現在に至ります。
拝殿の天井には鶴の絵が描かれており、賽銭を投じるとセンサーによって鶴の声が聞こえるという工夫が凝らされています。
境内には黒田長政の「黒漆塗桃形大水牛脇立兜」を模したブロンズ製の手水所や、黒田節の逸話で馴染み深い母里太兵衛の銅像などが据えられています。 ![]() 拝殿天井 ![]() 手水舎 ![]() 母里太兵衛銅像
本殿の左側には黒田孝高祖父の重隆、黒田孝高父の職隆、黒田長政の子で二代藩主の忠之、そして阿津姫を祀る摂社の堅盤神社があります。本殿の右側には大己貴命(おほなむち=大国主命)、国常立尊(くにのとこたち)、正哉吾勝尊(あめのおしほみみ)、国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、伊弉冊尊(いさなみのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと)を祀る末社の荒津神社があります。
荒津神社のさらに右側には明治期に普及したトロール漁法などの底引き網漁業で亡くなった漁業者を弔う底曳網漁船殉難者慰霊碑があります。
おもな祭礼
光雲神社の右方、底曳網漁船殉難者慰霊碑のさらに右側には中司孫太郎稲荷神社があります。
不確かではあるもののその縁起は鎌倉時代に遡るといわれ、五穀豊穣、海運、水産航海農工商の隆昌、安産、家内安全、交通安全、学業上達と多くのご利益が列記されています。
おもな祭礼
境内には所狭しと様々な“お稲荷様”が祀られていまして、一種独特の雰囲気を醸し出しています。どうやら様々な同業者団体や個人等がそれぞれにお稲荷様を中司孫太郎稲荷神社に勧請し祀っているようです。木々の生い茂る山の中腹にあるため、日中でも静けさに包まれています。
光雲神社の正門を降りてすぐ西側には立帰〔たちかえり〕天満宮へと続く下り階段があります。
立帰天満宮の社伝によると、大宰府へ向かう途中の菅原道真一行が道に迷ったとき、従者の味酒安行が山に登り立ち返って方角を確かめたことに始まり、菅公自ら彫ったとされる自画像を御神体として、現在の筑紫野市にある九州最古のお寺で藤棚でも有名な武蔵寺〔ぶぞうじ〕の境内に祀られていました。元禄年間になって武蔵寺から荒戸の地に移され、近郊の藩船の船乗りらに信仰されていました。明治20年(1887年)に現在の地に社殿が建てられ、「無事に立ち帰る」という名前の縁起の良さから漁業や航海関係者に参詣されるようになりました。また戦時中は出征兵士やその家族の参拝も多かったといいます。そのためか拝殿には戦時中の軍艦の写真が収められていたりします。 正面の鳥居を抜けると本殿までは下りの階段となっています。入口から本殿までの参道が下り坂になっているのは全国的に珍しい構造なのだそうです。 「かえる」にちなんで社務所では蛙(神饌蛙)の縁起物が販売されています。 境内には新四国札所大師堂もあります。 また境内手前を右折して細い道を通り過ぎると中央市民プール横に出られることから、福岡ドームへの近道としても利用されているとのことですが、道は狭く暗いのでナイトゲーム時には利用しないほうがいいと思われます。
西公園にはこのほかにも見物する事物があります。
立帰天満宮入口より坂を下って少しのところにある脇道を入ったところには、幕末期の数少ない福岡志士として活躍した平野国臣のブロンズ像があります。福岡藩士であった平野国臣は尊王攘夷思想に傾倒して脱藩し京都に潜伏。寺田屋事件で投獄。そののち生野の変で挙兵するも失敗し京都六角獄舎に投獄、獄中で斬首された人物です。 西公園の頂上には中央展望広場があり、ここから博多湾を眺めることができます。また中央には古代舟を模したモニュメントがあります。 中央展望広場から少し登ったところには、福岡藩老中でありながら勤皇思想を持ったがために王政復古直前に処刑された加藤司書を偲ぶ碑があります。 荒津山を降りた北側には黒瀬神社があります。 ![]() 平野国臣像 ![]() 中央展望広場のモニュメント ![]() 中央展望広場からの眺め
交通アクセス 福岡市地下鉄 「大濠公園」下車 西鉄バス 「西公園下」「伊崎」下車
→ 公式ページ:福岡県営公園 公園管理センター 西公園 |
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